なぜ、ゲートボールは廃れたのか?
ゲートボール場がこぞって、グランドゴルフ場に代わっている。ゲートボールと言うのは、元来子供の遊びとして始まったのだが、高齢者がする、健康増進スポーツとなった。
ゲートボールが衰退し、グランドゴルフにとってかわられたのは、やはり、チームで戦うゲートボールより、個人競技の方がよくなったということだろう。
チーム戦は協調性、緻密な戦略性が必要となってくる。
(戦略性と仲間意識の向上。そこがゲートボールと言う競技の魅力なのだが・・・)
協調性と緻密性。今更だが、高齢者が最も苦手とする能力である。
そこに持ってくると、グラブでたーーんって打って、旗のところにやったらいいんでしょ。っていう、単純・かつ明快なグランドゴルフの方が高齢者にはとっても向いているということだろう。
煩わしいチーム内でのいがみ合いも少なくて済む。
団体戦より個人戦。協調性より個が強調されている昨今の風潮が高齢者にも流れているということだろうか。
知らない人は損をしている病気になったときの対処の仕方
高齢になってくると、色々病気になりますよね~。
脳梗塞、脳出血、狭窄症、変形性関節症、心筋梗塞、心不全、パーキンソン病にアツルハイマー等々。羅列しだしたらきりがない。
では、では、そんな病気になったらどうしますか?
お医者さん行きますよね~。
まず、お医者さんで命を助けてもらう。
それでも障害が残ったら?
どうしますか?
たいていの人は、残存した障害を取り除こうとせず、機能回復に固執します。
でも、ぜーたい。死んでしまった脳細胞や変形してしまった関節は元に戻りません。
それでも人は機能回復に固執する。固執するあまり、人生をあきらめてしまう。
旅行に行くことも仕事をすることも全部諦めてしまう。
機能回復なんて、しなくても生活は取り戻せる。
障害さえ克服すればいいのです。
手足がなくても結婚して仕事して不倫までしておられる超人をテレビで見かけます。
あれです。
手足なんかなくなっても生活や仕事はできるということです。
ただ、元の姿に戻れないだけ。
病気になり元の姿でなくなったのであれば、新しい自分を作るしかない。
新しい動作。新しい生活。新しい人生。それまで病気前の自分をいくら思い描いたところで、無理。となったときに、
ハイ次!!!
と切り替えて、新しい人生を構築する。
学生時代、東大を目指していて落ちて、もう人生は終わりだ。と思っても、違う大学に入って、人生を構築するのと同じです。
いつまでも、過去の現実に囚われていても前には進まない。
テストで落ちたら、ハイ次!!
同じです。
障害を克服することは、決してイコール機能回復ではないのです。
レジェンドが認知症に!!!!えらいこっちゃ!!!
凄い記事を目にした。
あの長谷川先生が認知症になったというのだ。
長谷川先生と言えば、長谷川簡易知能スケールのあの長谷川和夫先生ですよ。リハビリテーション業界だけなく、看護、介護業界の人なら必ず知っている、認知症医療のスーパースター。生き神様。まさにゴッドである。
どれぐらい有名かと言えば、例えるなら、演歌界の北島三郎ぐらいのレジェンドです。
これは衝撃的なことである。
このことからわかるのは、認知症からは誰も逃れられない。ということである。
だって、長谷川和夫先生が認知症になったのだから。
御年89才。
2人にひとり。つまり89才だと50%が認知症になる。
100才では、ほぼ9割が認知症になる。
つまり、認知症は顔のしわと同じ。年を取ればなるということですね。
データーで理解できていても、それでも抗いたいのが人という動物ではありませんか。
その、認知症研究の第一人者である長谷川先生が認知症になったとは・・・。
その昔、私がどーーーしても理学療法だけでは、患者さんが治せない。
認知症をどうにか、できないものだろうか?
と、悩んでいた時に長谷川先生の勉強会に参加したことがある。
その当時、認知症といえば、アルツハイマー型認知症や脳血管性認知症、ピックや前頭側頭型程度しか、私は知らなかった。
長谷川先生の勉強会でトリータブルディメンチアの存在や、進行性核上性麻痺、大脳基底核変性症、「嗜銀顆粒(しぎんかりゅう)性認知症」いわゆるタウオパチーってやつですね。
その存在を知った。
認知症治療の手がかりを長谷川先生の勉強会で大いに学ばせていただいた。
現在私が実施している認知症治療にも根底には長谷川先生の教えが息づいている。
その長谷川先生が認知症になっちゃダメじゃん。もう。プンプンだよ。
芸術療法とかちょっとミラクルなことやってるな~。って思っていたら、これだよ。
ホントにびっくり。
とは言え、カミングアウトした長谷川先生は凄い!!
本当なら隠すところですよ。
加齢とともになるもの。恐れるものではない。というのを提唱してきた先生だから、これからの生き方が患者さんに勇気を与える存在になられるんだろうなぁ。だって、神だから。
いつだったか、先生の勉強会のくくりの言葉で
「私のもっぱらの心配事は、認知症にならないかどうかです」
といって、会場中を大爆笑させていたが本当になっちゃったじゃないか。
とはいえ、さすが、長谷川先生のお弟子さん。「嗜銀顆粒(しぎんかりゅう)性認知症」をちゃんと診断できるなんて凄すぎる。
そんな医者そうそういませんよ。
近所の医者千人集めても一人もいないと思いますよ(笑)
まぁ、長谷川先生も嗜銀顆粒(しぎんかりゅう)性だったから、ネタにしているのかもしれない。
89才でアルツハイマータイプではなく嗜銀顆粒(しぎんかりゅう)性ってところが、また、超人。素晴らしい。
それにしてもデイにいっているなんて、一流の研究者でも制度の用い方は知らないのかなぁ???
あっ!もしかしたら、先生のことだから、公演のネタ拾いに行っているのかも。それなら、やっぱり恐るべしゴッド。
凄すぎる。(笑)
ベテラン保育士 vs 中堅理学療法士
久しぶりに親子喧嘩をした。
私のオカンは保育士歴40年と言うベテラン保育士である。縁あって今は、障害児施設で働いている。
酒も入って調子づいたのか、オカンが愚痴めいた口調で療法士や看護師の悪口を言い始めた。
「あんな、言語聴覚士より私の方が、巧いは。全然でけへんねん、あの言語聴覚士」
というのだ。
保育士であるオカンが、言語療法の何を知っているというのだ?ずぶの素人である。何言うとんねんこいつ。と思いながら、
「何ができへんの?」
と聞いてみた。
「私の方が食介(食事介助)巧いねん。言語療法士は時間かかってしゃーないわ。私の方がはよ食べさせられんねん」
というのだ。
確かに介護現場においては、食介やお風呂介助は早くたくさんの人数をこなすことが美徳されている。
治療家である療法士は、検査をしながら、時間をかけて食事と言う場面を使って治療している。当然、介護士が作業として行う食事介助より、時間がかかる。
しかし、介護よりの考えしか持ちえないオカンは「早さが美徳」しか知らない。
当然言語聴覚士が何を考えて何をしているかなんて、興味もなければ、知ろうともしない。
酒がニトロになりオカンの饒舌がマッハになってい行く。
「あんなんやったら、私でもできるわ」
この言葉をきっかけに私の堪忍袋の緒が切れた。
「あのなぁ~。言語療法や嚥下訓練っていうのは、めちゃめちゃ難しいねん。俺かて、大概のリハビリテーションは全部やるけど、言語療法だけは、他の病院の腕利き療法士に頼んでんねんで。オカンみたいな素人にできるわけないないやろ。食介もただ入れるだけのオカンらと食事形態変えるための訓練と一緒の訳ないやろ。アホちゃうか。全介助の人の食事練習やってたんやったら、患者さんが自分で食べれるように訓練してたかもしれへんねん。オカンら全介助でザラザラ入れるんと訳がちゃうねんで。素人が他職種の悪口言いたいんやったら、ちゃんと勉強してから言わんと、恥じかくで」
私がそこまで言うか言わんかで、オカンはもうその話は飽きた様子で、
「私やって、ご飯食べれるようにした子供たくさんおるねん。あんなん、誰でもできるわ」
と悪態をつき始めた。
ブチッ!
私の怒りメーターが振り切る。
「そんなん、保育士かって、子育てなんて誰でもやってるんやから、誰でもええやんって話になるやんけ!そんなん、保育学もへったくれもいらんやん、って話やろ?」
オカンは専門学校で保育学を教えていたので、痛いところをついてやった。
元来負けず嫌いのオカンは、
「そうや、誰でもできるよ。」
と声を震わせる。
保育士、幼稚園教諭と子供の療育、教育に人生をささげてきて、一部上場会社の偉いさんにまで上り詰めた人である。
自分の職業に絶大なる誇りを持っているくせに、この言葉。
いやー売り言葉に買い言葉。恐ろしいですねぇ。
喧嘩はそれから、数十分続いたが、最後は、オカンが
「はいはい、私がわるーーございましたぁ~」
と、思春期中学生のような厭味ったらしい謝罪で、幕を閉じた。
つまり、現在のリハビリテーションの在り方の縮図がこの喧嘩には含まれている。
リハビリテーション治療は、専門家がちゃんとやれば治るものも、素人の自己流が横行していることで、寝たきり高齢者を大量生産しているのだ。
オカンみたいなのがちーちーぱっぱ。と踊りを踊って「リハビリ」だと言い張る。
お国が医療費削減のために「いいよ」と言っているのだから、別にそれはそれでいいのだが、いくらオカンがタンバリンもって額に汗して踊り倒しても、寝たきり老人は歩けるようにならない。
しかし、全国データで数%程度はそのちーちーぱっぱで、よくなる人がいる。なので、オカンみたいな介護系よりの考えの人が、
「私たちでもリハビリはできるのだ~」
ってことになってしまっているわけだ。
療法士がいる施設のデーターでは、約30%の改善率が見込まれている。
数倍以上ですね。
ちなみに、私のところの施設では50%以上が改善していた。
自分の勤めている施設しか知らない。また、厚労省のデーターもチェックしていないオカンのようなスタッフさんたちは、リハビリなんて私でもできるのだ~。と息巻いている次第なのです。
つまり、患者さんや利用者さんたちは自立支援法や介護保険法を用いて施設に行くと、何も知らないで、オカンのようなリハビリテーション治療に関して、全く素人がやるラジヲ体操を「リハビリ」として受けなければならないということなのだ。
そりゃ、寝たきりが増えるわけですよ。
しかし、オカン当の本人は、病気を患えば、自分はちゃんとした専門家にリハビリテーションをやってもらえると思っている。
おかしな話です。
今のまま行けば、オカンも確実に日本国が作り上げた、寝たきりレールから外れることができない。ってことを自分で今言っていることに全く気付いていない。そのこと自体が現在の医療・介護の闇ですね。
それともう一つ、この会話には医療・介護の闇が潜んでいる。
それは、業界では、医療費削減のために多職種、協業、協働というキーワードを用いて、お国は書類を煩雑にし、できるだけ国民に制度をもいさせないように工夫している。
この、協業、協働がどれだけ困難かをオカンの話は物語っているのだ。
つまり、言語聴覚士や看護師の専門性をオカンは一緒に働いているにもかかわらず、知らない。ということである。
「言語聴覚士に指示された。腹立つ!」
と、オカンは怒っていたが、言語療法士的には、協業を推進しようとしただけかもしれない。
しかし、協業や協働なんて言葉すら知らないオカンのような人たちには、
「偉そうになんか言うとる」
と、映るのだろう。
つまり、同じ法人、同じ事業所内でも他職種理解と言うのは困難なのである。
お国はこれを、地域社会で行えと言っているのである。まさに絵に描いた餅。霞が関が机の上で考えそうなことである。
いやはや。
とはいえ、協業、協働が本当にできたら、リハビリテーション効果は絶大なものになるのも事実。
改善率50%を誇っていた私の部署では、協業、協働の名のもとにリハビリテーション部を動かしていたので、改善率が全国平均の1・5倍以上の効果が得られていたのだ。
昔、オカンと同じように保育士さんと仕事をしたことがあった。あの人たちは、アクティビティ(活動)の持ちネタが半端なく凄い。
患者さんのグループ分けを療法士が行い、グループ分けの理由と治療目的を保育士さんに伝え、アクティビティを考えていただく。
高齢者医療を行うのであれば、もちろんだが、保育士さんには子供の発達・教育・療育と高齢者治療の違いを十分に説明してから、行っていただく。
違いを説明したのちに、グループごとの活動を決定してもらう。
もちろん、集団療法は個別療法ではできないところを担ってもらうので、集団療法と個別療法の2種類使えるのはとても治療としては有効的なのです。
集団療法は集団を用いることで、協調性や社会性を養いやすい訓練である。また、個別訓練で作った能力を統合することもできる。しかし、集団療法だけでは、寝たきりは歩けるようには決してならない。個別訓練と組み合わさることで、初めて意味を持つのです。
しかも、アクティビティのプロである保育さんが居れば、活動性が低下してる高齢者に対して興味を持っていただける引き出しが療法士だけで行うよりも、無限に広がる。
専門性と専門性を掛け算レシピすれば、治療効果は絶大なものになっていくのである。
こんなに素晴らしいことがあるのだが、残念ながら多くの介護現場では、オカンの勤めている法人のように他職種理解ができず、いがみ合っているのが現状。
他人を理解するのは骨が折れる作業である。
前頭葉が「いいじゃん。いいじゃん。自分の分かる範囲でやっとけば、めんどくさい事しても給料変わらないしさ」と命令しているので、協業、協働は夢のまた夢になっているのですよね。残念。
とまぁ、そんな親子喧嘩でした。ちゃんちゃん。
天神橋筋商店街
但馬屋
〒530-0041, 4丁目-12-5 天神橋 北区 大阪市 大阪府 530-0041
https://goo.gl/maps/JLyMjBcBSoE2
日本一の長さを誇る、大阪呑兵衛の聖地、天神橋筋商店街ですよ~。
但馬屋さんは、ザ・居酒屋、これぞ居酒屋。元祖居酒屋って感じです。
ドテ焼きに串カツ、馬刺し!
まさに食道楽。
大阪ええとこ一度はおいで~♪
旨い、安い!
今宵はこれから、これから。
いただっきまーす。
信心
94歳のお誕生日を迎えたばかりの〇〇さん。
両足は全く動かず寝たきり状態を強いられて、はや6年。
両目も見えず足も動かない状態で6年間入院生活を続けておられる。
そんな彼女が言うには
「先生、私はずっと若いころから信心をしてきたが、こんなに何にもできなくなって、ただの厄介者になってしまって、それでもお迎えが来てくれない。やっぱり、信心がまだ足りないって事かね〜」
悲しみと落胆をないまぜにした顔で、視線を空に投げる彼女に返す言葉が見つからなかった。
「その問は今の私にはお答えする事ができません。若輩ですみません」
私が頭を下げると、
「先生でも分からんことがあるんやね〜」
と、彼女は二カッ笑って、「しょうがないか」というような、あきらめを含ませた短いため息をついた。
彼女は尿道バルンを宝物のように抱きかかえ、看護師に車いすを押されて居室へと帰っていった。
信心が足りないから短命。というなら、いざ知らず…
信心が足りないからお迎えが来ない。
胸に杭を打たれたような衝撃を受けた。
私の2倍以上人生を生き抜いてこられた方の言葉は、重みが違うなぁ〜。