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ケーススタディー

作業療法士歴30年と言う兵(つわもの)のホームページを見ていて、とても考えさせられたので、ちょっと書いてみようかと思う。

 

作業療法士歴30年と言えば、リハビリテーション業界で言えば、ベテラン中のベテランである。

 

歴史的にみれば、医師や看護師と違って、昭和40年にできた出来立てほやほやの免許である理学療法士・作業療法士の歴史からすれば、40年選手や30年選手と言えば、日本のリハビリテーション医療を作り上げてきたレジェンドたちである。

 

しかし、ブログやSNSの特徴だろうが、若手療法士たちの失礼極まりない罵詈雑言が、批判として辛辣に書かれていた。

 

なんだかなぁ。である。

 

ベテラン作業療法士さんのブログの内容的には、医療改正の要点や国が療法士に求めているリハビリテーションの在り方を書いておられるだけである。

 

批判するような内容では決してない。

 

なのに、罵詈雑言。意味が分からない。

 

若手療法士さんの意見としては、学術論文的な情報や制度的なことはみんな分かっているんだから、先輩療法士たちは、ケーススタディー的なものを出すべきだ。

 

と書いてあった。

 

ケーススタディーとは、まぁ、簡単に言うと治療過程において、患者さんがやってきて治療家がどう考えて、どうやって、症状や障害を取っていったかを記録したものです。

 

まぁ、若手療法士さんの言ってることも分からなくはない。

 

医者の話す勉強会に行って、

 

「認知症ってのはこんな病気です。原因は・・・」

 

なんて、教科書にいくらでも書いてあることをつらつらとしゃべられて終わりだった暁には、何の意味もない。聞きに行った時間と費用を返してください。と思わなくもない。

 

検査方法も薬も症状も原因もすべて教科書に書いてある。

 

私が知りたいのは、それらの外科的手術や薬物治療をしてもなお、残存した障害をどうやってとるのかを知りたいのである。それを勉強しに行っているのだ。

 

しかし、お医者さんがしゃべる勉強会やセミナーではほとんどが、教科書に書いていることだけ話して終わり。ってパターンが多い。というか、それしかない。

 

なので、昔は手あたり次第に講義を聞きに行ったが、今では、よっぽど聞きたい先生以外の講義は受けに行かないようになってきている。

 

この批判をしている若手療法士さんもおんなじ思いなのかな?

 

と思わなくもなかった。

 

ただ、ケーススタディーと言うのは、ブログやホームページと言ったSNS媒体の性質と全く合わないので、とーっても難しいのである。

 

何故かというと、患者さんをAさんとしましょう。

 

Aさんは、世界中に一人しかいないからである!!

 

えーっと。もう難しいですね。

 

アルツハイマーを患った人は、何万人もおられる。

 

アルツハイマーと大腿骨頚部骨折を起こしておられる人も何万人もおられる。

 

八百屋さんでアルツハイマーを患って大腿骨頚部骨折を起こした方は数万人おられるとしましょう。

 

では、〇〇市〇〇町〇〇商店街で八百屋をしていて、アルツハイマーを患って大腿骨頚部骨折を起こした人は?

 

はい!何人いるでしょうか?

 

ということなんです。なんとなく伝わったでしょうか?

 

これを、個別性と言うのですが、個別性によって理学療法や作業療法は全く違ったものになる。

 

また、このAさんの性格や家族構成によっても全く違ったものになる。

 

それだけではない。人間には「気分」と言う結構厄介なものが存在する。

 

この「気分」にも合わせて治療プログラムは分単位で変化していく。

 

それらを事細かに記していくとどうなるか、とても素晴らしいケーススタディーが出来上がるが、それはあくまでも、Aさんの場合であって、世界中の誰かに応用できるものではない。

 

だから難しいのである。

 

いや、治療のヒントぐらいにはなるでしょう?

 

と思われた人もいるでしょうが、ケーススタディーはあくまでもそんな例があった程度のもので、そのケースのどの部分をどのタイミングで使うかは経験と勘に頼るところが多い。

 

エビデンス。エビデンス。と口うるさく教育される療法士たちはこの経験と勘をとても軽んじる傾向にあるのも気になるところである。

 

エビデンスとエビデンスを組みあわせて、治療はできあがる。莫大にあるエビデンスを組み合わせて、治療するのである組み合わせは天文学的数字になるだろう。

 

つまり、治療哲学と芸術という数値化できないところが、治療にはある。センスと表現する場合もあるだろう。

 

治療センスは確実に存在する。

 

センスのない療法士にあたれば、エビデンスはいくらあってもその患者さんは残念ながら、治らない。

 

ただこのセンスとやらはやっかいで、言葉にとってもしにくいのである。

 

そういうと、エビデンス大好き療法士ちゃん達は、ほら、エビデンスが話せない。となってしまうのである。

 

学術論文と治療を同じ土俵で推し量ろうとしているのだろう。

 

全く別物である。

 

サイエンスは再現性、客観性とよく言われますが、人の治療には先ほど説明したように、「患者さん性格・気分」「家族との関係性」等々の主観が必ずかかわってくる。

 

また、客観性の観点から行くと、患者さんの自己評価を主観とするならば、医師や療法士による他者評価は客観でしょうか?患者さんの毎日数分単位・数秒単位で変化する患者さんの気分の変化を客観スケールかけるけるでしょうか?つまり、療法士の主観によるところが大きくなるということです。

 

主観が入る以上再現性は困難になるのである。

 

再現性とはいつ他の誰がやっても同じ結果が出るということです。

 

アルツハイマーで大腿骨頚部骨折で〇〇町の商店街の八百屋さんをしているAさんが4月3日の朝10時に失禁をして落ち込んでいる。この状況を他の誰かでどうやって再現するのか?また、このAさんであり、この状況でないと使わないエビデンスの組み合わせを他の誰かで再現して、同様の治療効果を得られるだろうか?

 

非薬物療法においてはこの主観によるところが治療に大きく影響する。なので、ケーススタディーはエビデンスになりにくいのだ。

 

全く同じ人は世界中に誰もいないのだから。

 

例えば理学療法や作業療法が個別性を考えず、腰痛体操やってたらヘルニアが治る。的なものだったら、療法士なんていらない。屈強な体育大学のお兄さんで十分である。

 

単発のエビデンスだけで、治療ができるのであれば、国が進めているフィットネスクラブのアルバイトのお兄さんやお姉さんで十分である。

 

では、治療センスを鍛えるためにはどうすればいいのか?

 

それは、実際にこの療法士に習いたいと自分が思う療法士をつぶさに観察し、質問し、己の引き出しをパンパンにして、一人でも多くの患者さんを治療してくこと以外ない。

 

ブログ批判をしている暇があったら、先輩たちと飲みにでも行ってらっしゃい。と思う。

 

煩わしさから職場の上司や先輩たちと飲みに行かない若人が増えていると世間では言っているが、仕事の流れを教えてもらうだけなら、就業時間でも十分。

 

しかし、それ以外を学びたいのなら就業時間外で学ぶしかないのだが、そのことに重点を置いていない技術者が多いということか?

 

はたまた、エビデンス第一主義の中で、哲学と芸術抜きで治療できると思い込んでいる治療家が増えているということか?

 

どっちにしても、先輩たちの至言というのは、親の小言と同じで、聞きづらいのかもね。特にネット上では( ´∀` )

 

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今日もいい天気だなぁ。何してあーそぼ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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